からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

すきなものは一貫している、はず。

ドライブのおともに秋吉敏子さんのアルバムをそこそこの大音量でかけて、雨の、それも霧景色のなかの帰宅となった。昨夜はいつもより遅い食事と入浴となったので日にちが変わるころに眠り、いつもより遅めに起きようと思っていた。が、そういうときに限っていつもよりすこし早くに目が覚める。あと三十分、と目を瞑るつもりがねこちゃんが布団から出てしまったし、年中ねこちゃんのなっしーちゃんがもうすでに顔の近くで「ニャア、ニャア、ニャア」と吠えるように鳴く準備をしている。かすかにでも瞼が開いて頭が動けば「ニャア、ニャア、ニャア」と天然のアラームが始まるのだ。

午前五時半。カーテンを開けると日ごと日ごとに夜明けが早くなっているのを感じた。おかげでねこちゃんの起床時間も早くなっていく……彼女たちには何時だから起きる、なんていう概念がない。明るくなったら食べる。そして眠る。


久しぶりに朝から珈琲を淹れた。朝に煎じている漢方のつくしのような苦い残り香とタッチの軽い珈琲豆の香りが台所に漂う。これはこれで、春のにおいかも。

昨夜は夜の運転も苦にならなくなったと、ひところ鳥目で悩んでいたこともあってずいぶん気楽になったもんだと安堵していた。秋に患った甲状腺の症状が落ち着いて、いつのまにか外出することも平気になっている。そうしてふとぼんやりと『すきなもの』に対しての足取りが重たいことを感じた。
わたしはいまだに『(妄想上の)また何かあったら今度こそは上手く取り繕うために備える』ことに意気込んでいて、ぎこちない足取りで『すきなもの』を続けているなあと。そういうふうにこころが働くことは自然な反応なのだけれど、『いまこういうことに困っている』と自覚するまでにずいぶんと時間がかかる。現状わたしを追い込む外的要因はないので、落ち込んでいる、鬱々としている、打ちひしがれている。というわけではない。単純に、日常の動作の減少も手伝って、ボケている。
過去の嫌な人間関係は反面教師にしてきたけれど、嫌だと感じた事柄から『何かあったときのために』と備えながらビクビクと距離を置くように遠くの理想を闇雲に追いかけているだけだったかもしれない。日々お手本にしたいひとや本などにアンテナを立てているけれど、なんだかいいなあと感じるものへのスモールステップを踏むのがやけに下手で、だからおなかが腑抜けたり日々の出来事に忙殺されたりすると簡単に遠ざかるしうっかり忘れてしまう。

『何か』に備えての鎧を着ていては本来たどりつく場所へ漂流できない。以前よりは気楽になったもんだと感じるけれどまだまだ近視眼的に物事を見てしまうなあ。それでも明るくなったら起き上がるねこちゃんのように何時何分だから起きるという設定をしないで済むのは、そういう性分であることは、おおいに助かる。単純に『当てずっぽう』が足取り重くボケるほど代謝や体温が足りないのだ。からだを動かすしかない。


もやもやとわくわくが混在している。
この時期にしてはからだがイライラしていないなと思っていたけれど、ようやく怒りを感じた。しばらくおなかが腑抜けていたんで鈍感になっていたのかもしれない。
ひとまず五感への刺激は忘れずにいたい。昨夜の余韻もあってCDをかける。何年か経つけれどライブに行けたのはよかったなあ。そんなことをふりかえりながら、どういう状況下に置かれても肌身で感動する感性は育て続けていたいと改めておもう。