からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

服を着る

いったい何を着たらいいのかわからない。
暑いのか、寒いのか。今晩「ライブへいきましょう」と知人からお誘いがあって街へ出る。で、その街はここより暑いのか、寒いのか。夜は寒いのか。このあたりは寒いぞ。きっと帰ってくるころには、うんと寒いぞお。……で、いったい何を着たらいいのかわからない。

ねこちゃんがいるので日ごろは『穴があいてもいい』シャツを着ている。
『穴があいてもいい』シャツと『穴があいちゃだめ』なシャツを持っている。ここのところ外出することが減ったので後者のシャツはすっかりタンスの肥やしになっているが。

ちょっと肌寒いくらいがちょうどいいのだろうか。
『穴があいちゃだめ』なシャツにアイロンをかける。アイロンをかけてシワを伸ばしているんだかシワを作っているんだかよくわからないけれど、とにかくアイロンをかける。いちおう、パリッとした。いちおう、お店でみた第一印象のこころはずんだかたちになった。はず。


おしゃれには鈍感なほうなのだが、服をまとうって、たのしいものだなあとおもう。
いままでアイロンなんて無頓着だったが、あの第一印象の「いいなあ」を身にまとうことで、どんなときでも気分がはずむ。が、その、気分がはずむシャツはタンスの肥やしになっている。遠出じゃなくとも『ちょっとそこまで』の外出で着てしまえばいいんだろうなあ。そんなことをおもう日。きょうはそんな日。

リズム感を磨く

イオンモールへ行ったので楽器屋さんへ立ち寄りエッグシェイカーをひとつ買った。プラスチック製のたまご型のケースに、おそらく小さなビーズが入っていて(容量はケースの半分くらいだろうか、ずっしりとビーズを感じる)、振るとシャカシャカと音がなる。この、手のひらにすっぽりと収まる小さなマラカスのような楽器を「もしもお店にあったら買わねばあ!」というきもちで買った。


家に帰って、さっそくシャカシャカと音をならす。中身のビーズを感じながら小刻みに、シャカシャカ、シャカシャカ。音やリズムが安定したところで空いている片手と両足で並行して別々のリズムを刻む。ドン、ティティ、シャカシャカ、ドン、ティティ、シャカシャカ……げ、つらい。わたしが脳トレのような頭が鈍く動く苦痛を感じていると、足元でねこちゃんがエッグシェイカーをおもちゃだと思ってきらんきらんしたおめめでこちらを見ていた。


なにごとも、なにもやらないでむずかしそうと言っているより、やりながらむずかしいと叫んでいたい。
ラテン音楽をいっしょにやりましょう。の突然のお誘いは、以前から自分の内側にしまっていたぼんやりと感じていたことを具体的に現実化してくれるような気がする。ひとの縁はありがたいなあ。しばらくはシャカシャカと音をならしながら「つらい、つらい、アアアア!!」と叫んでいそうだが(どうしてわたしは黙って練習することができないのだろう)、なんとか食らいつきたい。

よっこいしょ

久しぶりに外の物干し竿を拭いた。
何カ月も使っていないから汚れがひどく雑巾を二度ほどゆすいだ。物干し場は冬のあいだは日陰になる。冬が明けると花粉や黄砂が飛んで、花粉症もちのつれあいのために室内干しが続く。

本日、洗濯日和。黄砂飛来なし。
強い風が吹いてシーツなどの大きなものもすぐに乾いた。風になびくシーツをみて、なんだか生活感を取り戻したような気がする。とくに何かを失っていたわけじゃないけれど、天候などの都合で週に一度の(だいたい週末にする)寝具の洗濯が不規則になり、いまひとつめりはりがなかったようにおもう。

少々雪は降るが積雪地帯ではないから、本来雪が積もって外出などをきっぱりあきらめて過ごす期間に、中途半端に寒さを感じながらその時期の度を越えた動作を起こそうとしていたようにもおもう。だから鳥や虫が活発になっても、からだの目覚めが悪い。


緩急つけるのへたくそねえ。と、ふとしたときにじぶんじしんに言っている。
気が張ることに適応しようとしていないか。そんなんじゃあ、だめなのよお。ばーか、ばーか。とよく言っている気がする。あたまでっかちではなくて、からだ優位の感性がすたこらサッサと逃げているから、でんぐり返しを日々の習慣にしようかな。
あと、ブリッジ。(いま試しに久しぶりにやったら筋力低下か体幹がやたらくすぐったくて笑い転げてしまった。が、ときどき背骨がかゆくなるとブリッジをしたいなぞの衝動が起こるので練習したい。かも。)

積読本を手にとる

一節に凝縮されたことばを体内で消化するのを待っていたら、ふたたび本を開くことが一年越しになってしまった。ということにしておこう。積読の光景を眺めてふと思い出したが、たぶん「つまみ読みじゃあなくて、通読するぞお」という意志すら忘れていたかもしれない。

もじどおり何冊か本を積んでいる。日焼けして紙の色が茶色くなっている古い文庫本『エミール(上)』の下に同著『孤独な散歩者の夢想』新品の文庫本がある。読み進めるとふらふらと寄り道がしたくなる作品なので、このくらいの、うっかり忘れている、くらいのペースで通読するのがちょうどいいかもしれない。
じぶんの尺度でことばを受け入れて、よくもわるくも振り回されることが、年を重ねるにつれてたのしくなってきたかもしれない。自分自身の経験で得た感受性の色彩と、どこのだれだかわからないひとのことばが、じわりじわりとまじりあう過程がなんだかいいなあとおもう。

環境変化だとか体調不良だとか。で、なにもかも忘れていたけれど、ひととの再会や新たな出会いにより「これ、やってみたいのさ!」という道に戻る仕組みのようだ。それにしても読書習慣がないので、じぶんでじぶんのおしりをぺしぺしとたたく必要がある。しかしながら、ねこちゃんが膝に乗ってきてぬくぬくしてうとうとするので、読了を目標にしてはいけない。本をひらく意志を優先できればそれでいい。


やることは、いたってシンプル。
もしも、ねこちゃんとぬくぬくしてうとうとして一日が終わることに焦りを感じてしまうのならば、それはこころが力んでいる証拠だから、なにもかもをまあいいかとあきらめて脱力する機会にすればよい。我ながら、わかりやすいスケジュールでたすかる。

てくてくしよう

昼過ぎ。郵便局からの帰り道、見上げた電線にハトちゃんふたり。おなか、おなか。おなか。ふっくら、ふっくら、ふっくら。わお、わお、わお。ぱたぱたぱたぱた。

傘をさすほどでもない小雨の日。
車移動の一時間は「ああ、すぐそこね」と言い切るのに、近所へ歩いてでかけることがどうもめんどうくさく感じるのはなぜだろう。三重県のひとあるあるかしら。

遠くの山々は雨でかすむ。きょうはそんな日。

日本酒を欲する

ことあるごとに「運動しよう、運動しよう、運動するぞお」と言っているくせに運動不足更新中なのでふとした拍子に腑抜けている。去年の秋に甲状腺機能亢進症とやらで動悸がひどく運動習慣がなくなってしまったときには「からだがあ、きもちわるいぞお、うごきてえ、うごきてえ……」と叫んでいたくせに、症状がやわらいだいま、どうにも腰が重い。それでも一切お酒を欲しなくなったからだが、日本酒を求めるようになってきた。気がする。

病気になるとお酒を欲しなくなるのだが、どういう仕組みか、うんと血のめぐりが悪くなるとそういうスイッチが入る。酒は百薬の長というが、たしかに少量のむとぐぐぐと内臓が動く。これからの時期、湿気に胃腸をやられるので活動維持のためにそういうスイッチが入るのかもしれない。そういう、なんかよくわかんない、スイッチが。

となると、アテにあんこだのぬか漬けだのがほしい。
わたしは胃腸の調子で行動力が決まるタイプのひとなので、こういうときは胃の声に逆らわないほうがいい。が、ちいさな家ゆえにコンパクトな冷蔵庫でないと運搬できなかった我が家のちいさな冷蔵庫のなかみは、漢方と日々の食材であまり余白がない。こんどスーパーで奈良漬けを買うか。小さなパックに入っているあれならいけるぞお。思考がささやく。


ここ数年、もう十年ほどのつきあいである転換性障害で頻繁に歩行困難になっていたので、四肢が不自由であることに慣れてしまった。そのせいか、ここ最近ふと気がついたからだの機能の正常さ、しぜんと手指や足指が連動していることに少々混乱している。すなおにうれしいことなのだけれど、驚いている。頭が処理できずに重たい。といっても五感を刺激する機会が減ってただボケているだけなので、練習をかねて少しずつ日常の動作を増やしていく必要がある。体が素直に利き手を使うようになったこと、こどものころに矯正利き手で遊んでいたことを、左手でもやってみたい衝動があるので(背骨がかゆくなるほど)、これは満たしてあげないと。と感じる。

使う手が変わるとからだの軸や見え方が変わるので、がらりと何もかもが変わるような感覚がある。方向音痴を克服したように頭の使い方もずいぶんと変わっている。日本酒を欲するスイッチは「あたまでっかちで生活しとる場合ちゃうぞオラア」という説教のような気がしてきた。こちとら生命維持やってますねんオラア。と、からだが怒っている気がする。

すみません、すみません。
でもねこちゃんが膝に乗ってきてぬくぬくしてうとうとしちゃうんです。
という言い訳くらいは余白に残して、すこしずつ動こう。ということにする。きょうはそんな日。

からだで雨を感じる

あ、キジたろう。はっけん。
よくとなりの空き地に出現していたのだけれど、ここ数年は見かけなかった気がする。なんだか久しぶりに近くで見ることができて安堵のような感情を抱く。
雨が降るまえに洗車を済ませてしまおうと、空を仰ぐとトンビちゃんが低空飛行中……きみら、ほんまよく会いに来てくれるなあ。わたしが外に出ると必ずトンビちゃんがやってくる。これはこどものときからのことなので、ときどき、そのうち鳥使いになるんじゃあないかとおもっている。

カエルちゃんの声に耳をすまして雨の距離をはかる。雨のにおいもまだ遠いし、いまやっちまえば間に合うはず。そんないいかげんな天気予報がよくあたる。洗車が終わるとキジたろうの鳴き声を合図に、スズメちゃんやらツバメちゃんやらトンビちゃんやらの鳥ちゃんたちは集団でなぜか南のほうへ飛び去って、ぽつぽつと雨が降り出した。

黄砂が落ちて雨を撥水している窓ガラスに、にやりにやり。
洗車後すぐに雨にあたることを嫌うひとがいるけれど、個人的には常時汚れるものだと割り切っているので、なんというのか、この、雨の撥水ぐあいをみて、にやりにやりとしてしまう。何度みても水が弾けているさまは見飽きないなあ。


そういえば。誰に教わったわけでもないのに雨を感知することができるのは不思議だなあ。日々のぼんやりと何かを眺める仕草のなかに、こんなふうに知恵を得る情報がけっこう埋もれているのかもしれない。何を感じ取ろうとしているのか、意識的に自覚できるようになったらもっとせかいが広がるかしら。
日付、気温、時間、エトセトラ。を数字で整頓することに慣れてしまうのは、やっぱりもったいない気がしてきた。きょうはそんな日。