からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

ねこちゃんのこと

オス猫のちよちゃんが旅立って季節がひとつ移り変わろうとしている。気が弱くおっとりとした性格でも我が家の猫社会の大黒柱を彼なりに努めていたので、彼の不在により残された三名のレディたちが大きな不安を抱える様子もあり、さらにはちよちゃんが旅立つ前年には年長の座と大黒柱を務めていたぽんぽんちゃんというこれまたとてもおだやかで大柄な男子が旅立っているので、かさぶたがめくれて深い傷ができた。そんな冬だった。

ちよちゃんが旅立って以来、年長の淑女よしこちゃんには『たくさん考えること』ができてしまったようで。
ちよちゃんはよしこちゃんを母親のように慕っていた。よしこちゃんもそれを受け入れていたし、一緒に眠れないことで彼を探していた。
年中のわんぱく娘なっしーちゃんはくいしんぼうリーダーとなり『おいしいもの』を見つけると、あとからちよちゃんが眠っていようがそそくさとやってくることをしっかりと理解している。しかしそれが実現しない。ちよちゃんが来ないんで「見つけたぞ!」と死に物狂いで『おいしいもの』を見つけて叫ぶように鳴くこともあった。それでも彼の姿がないのでしばらくは悲嘆に泣き叫んでいた。なっしーちゃんはわたしの姿が少しでも見えなくなると泣き叫ぶこともあった。
すこし神経質なよしこちゃんは悲嘆に泣き叫ぶなっしーちゃんを寛容しなかったし(ストレスで膀胱炎を起こしたほど)、よしこちゃんもなっしーちゃんもいままでの生活で男子不在ということをはじめて経験している影響か、いっしょに生活している猫を見送ることはこれがはじめてではないのに不安や恐れが過剰に渦巻いているような日々だった。
年少のおっとりとしたとろちゃんは、彼女たちに不安を抱いてわたしやつれあいにあまえにくる頻度が増えた。三者三様のグリーフの過程を過ごしていた。

さみしいね、怒っちゃうね。なんでおらんのやろね。なんだかいやなきもちになるで憎いね。でもだいじなおはなしね、きみたちはずうっとすきとすきでつながってるし、どんなに憎いきもちがあってもな、すきはすきでええんやで。あんしん、あんしん。
と、ひたすらとなえた冬だった。
いまでも彼のことを探すけれど、体が病むほどの衝撃はすこしずつ消化しているように思う。

ところであるとき「仲、よすぎでは?」と友人らに指摘されて気づいたことだが、そういえば我が家のねこちゃんたちはテリトリー争いがなく、いつもべったりとくっついている。つれあいは「りさの教育やろ」と断言しているけれど、たぶんこれはおとうちゃんをしてくれたぽんぽんちゃんの教育だと思う。
ぽんぽんちゃんは初対面でも誰とでも瞬間的にともだちになれちゃう、コミュニケーション能力が高いねこちゃんだった。
よしこちゃんとなっしーちゃんは子猫時代から、ちよちゃんととろちゃんは成猫になってから、血の繋がりがなくても年下のねこちゃんとの出会いがあれば自発的におとうちゃんを務めてくれたので、月日が経てど彼の残り香が彼女たちのこころの基盤となっている気がする。

普段はいかにとなりの皿から食いものをかっさらうか、わたしやつれあいの膝を(あるいは腕枕を)占領するか、欲に忠実となり個人戦をこなしているくせに、結集するちからはずいぶんと高いものだ。お互いひとりひとりの存在感がだいじなので、性別や年功序列で階級があるわけでもない。みんな素直そのものである。


ちよちゃん。からだが弱く約六年と短命だった。
一生の価値は生きた時間の長さではかるものではないから短い生涯でも長い生涯でも惜しむ気持ちは変わらないのだけれど、『ひとりひとりの存在がだいじ』という輪のなかで、そのままのすがたを分かち合えることはうれしいものだと改めておもうし、ねこちゃんどうしの脈々と連なっていくきずなというものを、自分自身のすなおな感性で肌で感じることをだいじにしていきたいなあ。と、そんなことをおもう。