からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

食べることの余白を身につけたい

感情の波が激しく動いたときは食べないほうがいい。と何かで読んでからそういう状況になったときはゆるめの断食をするようになった。感情が重たいぶん胃腸に負担がかかることを体感しているので、ある程度の空腹もそこそこに受け流せるようになった。
ちゃんとおなかがすくまで待つ。しかしおやつがある場合は難易度が上がる……ので、砂糖の影響を感じた場合はスーパーで見つめるだけ見つめて買わないようにしている。苦めのチョコレート、おせんべい、そんなに甘さを感じないものでも砂糖は入っている。毎日のお茶うけにしていると、日ごろの運動不足も手伝い、ちりもつもればとやらで影響がでる。

ああ、おなかすいた。
しかし我慢をしているわけではないので、とくにストレスもなくだんだんとからだに気が通っていく様を観察している。なんだか久しぶりにおへその下に力が入りそう。ついでに『興味があるのに日々の出来事によって忘れていたこと』をゆっくりと思い出してきた。


なんだかじぶんは、胃腸の機嫌によって行動力が決まるように思う。そういうタイプなんだろうなあとようやく自覚しはじめて、甘味を食べ続けても支障のないからだにしたいものだなあとつくづく思う。
いまはこれっぽっちも呑んでいないけれど、祖父からの隔世遺伝で呑める口のようなので満喫できるものは満喫したい。上戸は甘味を好むのかしら、そういえばおじーじも甘味がすきだったなあ……なんて、重度の糖尿病を患いながらも「これネ、病気をアルコール消毒してるんダヨ」すきなものをにこやかに楽しむ姿はいつ思い出してもほほえましい。

祖父は九十三歳までボケずに生きていたけれど、やっぱり体の使い方の基礎が違うんだろうなあ。あの世代のじいさんばあさんは『そもそも』が違うんだって、ということを知人と話すことがあった。本当によく動く。聞いた話だが入浴中に溺れかけて咄嗟に栓を抜いたとか。九十歳を過ぎて、その瞬発力と判断力はなんなんだ。と驚愕した記憶がある。

動作にグラデーションがなく動いているか寝こんでいるかの白黒しかない『そもそも』がないじぶんは、せいぜい胃腸の機嫌を損ねないように努めるしかない。若さゆえの体力がなくなってきて誤魔化すことができなくなったぶん、素直に反省することが増えた。おそらくある程度の好調に満足して再びおかしを買いそうな気もするが、ゆるやかにたのしみを継続できたらいいな、とおもう。