からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

うろうろ、うろうろ。

黄砂飛来。周囲の山々が霞んでいる。
いったいシーツはいつ干せばいいですか。
かといって。
花粉症もちのつれあいのために外干しは控えているのですが。
はれのちくもりのち、つめたい風。

まだまだふゆ。ねこちゃんは暖をとるように膝の上にくる。
だからきょうも本を開いてうとうとするだけ。先日借りた図書、いったいいつ読み進めるんだろう。まあいいか。とそんなぐあいに、そういえばきのう、また。本、買ってるし。
本棚から「やあ!」「はよよめ!」「やあ!」「手にとれ!」大群衆のかいじゅうが大声だしている気がする。

 ―――山高帽をかぶり、黒っぽい背広を着、ブリーフケースをかかえている男にベンは追いつかれた。トゥーティングから、シティのオフィスにかよっているこの男は、八時半には、自分の机の前にすわっていたいのだった。この男は毎朝そうしているのだ、独身だから。
 仕事にいく男は橋の上でベンを追いこしていった。ベンは橋の真ん中でたちどまった。そして欄干にひじをつき、ロンドンの中心をながれているこの川の、おどろくほどの長さと幅とを感心しながらながめていた。

まぼろしの小さい犬』 フィリパ・ピアス作/猪熊葉子訳(岩波少年文庫


で。図書を読み進めることもなく一場面をうろうろしている。
うろうろしたすえにYouTubeで雨の音をきいたり、ウィリー・ネルソンをきいて充電したり、なんだか一丁前にこたえがでているのに悩んでいるひとのような過ごし方をしている、きょうはそんな日。

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ゆらゆらする勇気

夢をみる。友人がでてくる夢。
奴は、わたしの知っているあのひょうきんな笑顔をこちらに向けてたのしい時間をくれる。奴は、いま転換期やなあと感じる頃合いに「がんばれよ」とばかり夢に現れる。
生きとってくれたほうがうれしかったんやでえ。と出現するたびにこころのなかで呟くが、怒り狂うわたしはいない。ある日を境に前進しないことを奴のせいにしているなあと思い悩むちからが抜けて、純粋に彼を想う日々を重ねている。かといって、あの苦渋に満ちた最期の顔を忘れたわけでもないが。まあ。げんきそうならええんやわ。夢のなかでも。と、かたをつけることもなく日常の一場面のように忘れていく。

そろそろ、十年くらい経つような気がする。
また会いたいなあ。は、もうずっと満たせないけれど、じぶんごとのように奴のことがすきなんだよなあとふりかえるたびに再確認してしまうので、素朴にさみしさもあるけれど愛おしくも感じるわけで。
なにもかもを受け入れられないから感情や道理を美化することもあったが、三十路を過ぎてさすがに落ち着いたのか他人をおもうまえにじぶんのことをおもいやろうと地に足をつけることが増えた。だから日常の一場面として忘れていく。忘れるけれどなかったことにするわけではないから、淡々とした日々の積み重ねのなかで、ふとしたときに愛おしいなあ。なんてふりかえる。

ふうむ、あきらめるか。
あきらめるというより、また会いたいなあ。と思っていることも忘れてみるか。凝り固まった思考や感情をほぐしてつぎの段階へ行くときがきたのかもしれない。かたをつけるわけではなくて、ちからをぬきたい。このままではなんだかぎこちないから、なめらかにゆらゆらしたいなあ。


なんだかこのごろ「ああ、そんなかんじでいいんだなあ」の勇気がぽこぽこしてる。
新緑の季節だからね。いろいろと芽生える。きょうはそんな日。
あんぱんとカフェオレを摂取しよう。

ぼこぼこ

じぶんのなかのさみしさをじぶんで増幅させちゃうプロになってしまいそう。
このままではからだもこころも感性が閉じていってしまうので、ふらっと本屋さんへでかける。目についたものを手にとって、みるだけ。みるだけ。

情報収集は動きながらきょろきょろするのがちょうどいい。
なんとなく、冷たくなっていくからだが「そうそう、わたしがみたいものはこっちなのよ」と四肢と五感を通じて教えてくれるような、そういう刺激を得られる。そうして目的もなく何かを探して、ぱらぱら、ふむふむ。ざっくりと立ち読みをしているふりをして、けっきょく何も買わずに本屋さんを後にする。
車に乗るころには「あ、なんだかへんなこだわりがあったかも」と気づいて、たいへんよろこばしいことだとお祝いにケーキ屋さんへ寄る。

ところで通院中の漢方内科の先生に「ちっちゃいんやけど、ハゲができてました」と報告したところ「ハゲにも効くようにくすり調整しますね」と。
この小さな白い空間に髪の毛が生えてくるかは様子見するとして(大きくなって目立つようになったら刈るつもり)、漢方でなんとかなるんやなあと感心した。「ストレスによわいんちゃう?」との指摘ももらえたので、じぶんでじぶんのさみしさを増幅させちゃうプロになんかなっちゃいけないぞ。と省みる。


しっかりやすむことをおぼえよう。
高い集中力を得てあんまり気にならなくなってきた聴覚過敏による疲労を、たいせつにひろいあげることにした。きょうはそんな日。

季節が変わる合図

夏日。
日中は26度と高まる一方で夜明けの時間帯は10度以下と低い日もある。ねこちゃんはかけ布団の中と上をいったりきたりしてほどよい暖をとって寝ている。換毛期になり綿毛のような体毛が床にふわふわ落ちていることもしばしば。

外に出ると虫たちが活発に、今日はハチさんをみた。巣作りのあたりをつけているようだった。攻撃系のヤカラが来るまえに偽の巣をつるしておかねば。
たぶん時期外れのような気がするのだけれどカメムシちゃんをよくみる。うちにおったら、ねこかいじゅうにやられんで。外にいこうね。と、そんなことを毎日のように言っているような。それにしてもこの時期にカメムシちゃん?(暖冬だったからボケてるのか?)


春分の日は雪が降っていた。あれからひと月も経っていない。
カレンダーや温度計の数字とにらめっこしたって気候の都合はイマイチわからない。ねこちゃんの換毛期を合図に『ちょっと肌寒いくらい』の仕様にしていいのかもしれない。

ふと、五月、六月のうちに暑中見舞いを出したっていいように感じる。
なかなかに日差しが暑い。きょうはそんな日。

でかける

待ち合わせの約束などしていないのに、ふらりとでかけた先で偶然にも友人に会う。こんなことあるんやなあと昼過ぎから夜にかけて伊勢市周辺を堪能する。
「これからひとりで帰るのかよお」
「長距離やで気をつけてね」
お互いにふたりで外出することに慣れてしまったようだ。ひとりで運転することに退屈を覚えてしまった。話し相手がいないとどうも運転に飽きる。飽きる、というか、運転に集中しすぎて肩のちからが抜けない。すこし窮屈なのでトーク系のラジオかCDをかけて気を紛らす。

夜道。なるべく明るくて交通量があって動物さんの出現率が低そうなところがいい。しかし脳内の地図がちんぷんかんぷん、思ったところにでないぞでないぞとすこし迷いながら帰路についた。


きょうはそのおさらい。
あの町名と町名がとなりでえ、あの道がここでえ、渋滞避ける裏道はあ、えーと、えーと。グーグルマップとにらめっこ。三重県の山々の面積ときたら。隣の市へ向かうにも車で小一時間はかかる。隣県に出るのと大差ないので、移動時間を体感してしまうと「案外どこも近いなあ」と行動範囲が広がっていく。

初見にしてさも地元民のようにショートカットコースを知っているひとがいるが(父親がそうだった)、方向音痴を克服したいま、地図をしっているひとになりたい。気がする。なんてことをおもっていると紙の地図の必要性を感じる。更新していない古いカーナビを使っているが、気になった場所で車を停めて地図を俯瞰して書きこみたくなる。おなじ作業をデジタルでもできるけれど、鉛筆をもっているほうが性に合ってたのしそうだ。

読む

図書を借りる。
読むのが遅いので貸出期間の二週間では読み切れず延長手続きをするのだが、膝の上にやってくるねこちゃんにここちよさをおぼえてうとうとしているうちに本を読む熱量が覚めてしまい、読了せずに返却。ということをくりかえしている気がする。
どんなにおもしろくても読みかけの続きが気になるような衝動が起きないので、いつのまにか眠気を優先している。映画などの映像作品はみてしまうのだけれど。

こどものときから読書習慣がなかったので、単純に読書をするための筋力が足りないのだろうとおもう。中学生のころは作文力をほめられることが多かったので「本、たくさん読んでるやろ」なんて言われることも多かったけれど、学校の図書室、まちの図書館や本屋さんへ通うことなんてなかった。そして『ぜんぜん読まない』でいまに至る。


おとなになってから本を読むひとにであい、その影響で児童書に手を出したものの。本を読むことに興味はあるけれど優先度が低いようだ。なかなか習慣にならない。
伝えるための技術はすこし身についているけれど、文章を書くこと、話すこと、弾くこと、の即興的な反応が十代のころとあまりにも変わっていない気がしてモヤモヤしている。散歩中に「この風景をどんなふうにかくんだろう」と考えることも増えた。が、語彙力や言い回しのパターンなどがなんともさみしいもので。スッカスカの引き出しに読書(ものがたり)の重要性を痛感している。

それに加えて外出先で文学のはなしをするおとながいると、なんだあれえ、かっこいいぞお。と憧れることも増えた。たぶん「あれえ。案外、初対面のひととも話せるぞお」というはっけんが背中を押しているのだろう。できないと思いこんでいた苦手意識が薄くなっていくたびに「なんだあれえ」がふくらんでいるような。いい機会なので読了するかは置いといて、図書館へ通うことは習慣づけている。


図書館にも本屋さんにも置いていない気になるタイトル(要約)は古書を買って、ぱらぱらと目を通して頭に索引だけつくり積読しているので本棚から「いつ読むねん」と声がきこえる。気がする。
読書習慣の優先度を上げる意識をしてみよう。読んでいるふりだけは一丁前なんだが。

ねこちゃんにならう

朝起きると腹が腑抜けていた。腹の内側が冷たいので二度寝する。そんなことはお構いなしに年中ねこちゃんのナッシーちゃんが「ニャー、ニャー、ニャー」とあの手この手と爪を使ってわたしを起こしにくるので「きのせい、きのせい」と彼女を布団のなかに引き込んで眠りにつく。

けっきょく小一時間ほど眠ったあとにいつものように朝の家事などをこなしてみたが、やっぱり腑抜けているし寒いので「天気ええなあ……」と窓の外をみるだけみて布団に戻る。たぶんからだのバランスを失って張りつめているんだと、こういうときは思い切って動くほうがいいとわかっているけれど、感受性が閉じていくような無気力さがじわりじわりとからだを支配している。ひたすら眠る。


おりたたんだかけ布団のあいだから年長ねこちゃんのよしこちゃんが顔をだす。じぶんでもぐって寝ていたらしい。いつぞやつれあいがテキトウにねこちゃんの誕生日を設定してくれたことがあった。彼女は今日で十二歳。野良猫だったので推定。
なんだか年齢のせいか最近は気品がにじみ出てきた気がする。いつもおでこをくっつけて眠るほど甘えん坊なのだけれど、どうぶつの品性はいいもんだなあ。

そういえばここ最近、腑抜けているわりに頭をからっぽにして眠ることができるようになった。その場のことをいつまでも引きずらなくなったというか、テキトウになったぶんいったん忘れることに強くなったというか、本来の性分で呼吸ができているというか。


あえてこころを満たそうとしなくたって、勝手に満たされるんだよなあ。なりゆきとやらにもうすこし安心感をもって呼吸ができればいいなあ。
そんなことをふと感じる日。きょうはそんな日。寝よう。