からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

ゆらゆらする勇気

夢をみる。友人がでてくる夢。
奴は、わたしの知っているあのひょうきんな笑顔をこちらに向けてたのしい時間をくれる。奴は、いま転換期やなあと感じる頃合いに「がんばれよ」とばかり夢に現れる。
生きとってくれたほうがうれしかったんやでえ。と出現するたびにこころのなかで呟くが、怒り狂うわたしはいない。ある日を境に前進しないことを奴のせいにしているなあと思い悩むちからが抜けて、純粋に彼を想う日々を重ねている。かといって、あの苦渋に満ちた最期の顔を忘れたわけでもないが。まあ。げんきそうならええんやわ。夢のなかでも。と、かたをつけることもなく日常の一場面のように忘れていく。

そろそろ、十年くらい経つような気がする。
また会いたいなあ。は、もうずっと満たせないけれど、じぶんごとのように奴のことがすきなんだよなあとふりかえるたびに再確認してしまうので、素朴にさみしさもあるけれど愛おしくも感じるわけで。
なにもかもを受け入れられないから感情や道理を美化することもあったが、三十路を過ぎてさすがに落ち着いたのか他人をおもうまえにじぶんのことをおもいやろうと地に足をつけることが増えた。だから日常の一場面として忘れていく。忘れるけれどなかったことにするわけではないから、淡々とした日々の積み重ねのなかで、ふとしたときに愛おしいなあ。なんてふりかえる。

ふうむ、あきらめるか。
あきらめるというより、また会いたいなあ。と思っていることも忘れてみるか。凝り固まった思考や感情をほぐしてつぎの段階へ行くときがきたのかもしれない。かたをつけるわけではなくて、ちからをぬきたい。このままではなんだかぎこちないから、なめらかにゆらゆらしたいなあ。


なんだかこのごろ「ああ、そんなかんじでいいんだなあ」の勇気がぽこぽこしてる。
新緑の季節だからね。いろいろと芽生える。きょうはそんな日。
あんぱんとカフェオレを摂取しよう。