からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

『間』を感じること

間をとることが上手なひとは発信力や伝達力が長けているような気がする。『長けている』というのは、難しい言葉をたくさん知っているとかそういうことじゃなくて、喜怒哀楽のきっぱりとしない曖昧な表情をもしっかりとくみとって受け手へ鮮明に伝えるちからのこと。
表現力のグラデーションが深くて広いとしぜんと計算による表現もできるようになって、いつのまにかそのひとの感性と混ざり合った『間』が出来上がっているような気がする。そしてそれはとても自然体なのだけれど、とても説得力のある、ちからのある、魅了される素朴さで。

というようなことを、先日「わびさびってなんやろう」と友人の唐突な問いに「たぶん、間のとりかた」と答えにしたけれど、たかだが31歳の人生経験ではなあんにもわからない。それにしても、彼は会話のあいだの少しの沈黙をこっそりと起き上がらせるように『ぼそっ』と訊くことがあって、いつもその『ぼそっ』が個人的には旬な話題で、数日経っても『ぼそっ』が後を引くのだ。本当に妙なタイミングで言葉を放つので、つむじがふたつある者どうし、なにか共振しているのかしらん。なんて思っている。


たぶん。四十路になろうが五十路になろうが「なんもわからんわ……やで、いったんおやつしよ」と答えているんだろうなあ。
わからないことはそのうちわかることが多いけれど、『間』についてわからないあいだは、からだやこころが変に力んでいるんだろうなあ。ということしかわからない。それと、正解や不正解があるものではないとおもう。ということ。


ひとまずいまは、土手へ行ってごろんごろんと転がりたいし、原生林に触れたいし、牧場のひつじちゃんとふれあいたいし、という衝動が日に日に増していくので考えるのはよそう。それに、くっついてもくっついてもねこちゃんが寄ってくるので、わからないことは忘れるほうがいい。からだを動かしたり、ねこちゃんをなでたりして忙しく過ごしているほうがいいんだろうなあ。うん、きっとそれがいい。それでたぶん、忘れたころに「はっ、はあ~~ん。こういことですかあ」とニヤニヤしながら感覚をつかんでいるんだろうなあ。予定は未定だけど。