からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

すなおさを育む

昭和歌謡ポップス名曲選なる楽譜を買って「これは上野発の夜行列車……の音なんかじゃあない」とブツブツしている今日このごろ。メロディをなぞるのは簡単だけれど、なかなかにむずかしい、むずかしい、むずかしい。白と黒をしばらくにらめっこしたのち、わけがわからなくなって買ったばかりの楽譜を窓の外へ放り投げたくなるから、からだのムズムズを解き放つべくでんぐり返しをする。

ときどき歌詞を打鍵だけで歌うように弾くひとがいる。じぶんもそういうふうになれたらいいなあと思っているし、久しぶりに再開するついでに表現の幅やグラデーションを深くしたいなあと思っている……けれどもいまはこのモヤモヤをうまく処理できないし、そもそも体力が落ちているから先にかけっこをしたほうがいいかもしれない。からだを動かすことの自由自在さがどうにもねじれている感じがするから、まずは運動神経のよい友人にからだの使い方を教わりたいなあとも思っている。その友人に「となりで走ってくれやん?」と依頼すれば「トレラン(トレイルランニング)するか!」と返答がくるので、そういえばここ何年か病気勝ちで登山もしていないじゃアないかア。ということを思い出してしまって、まずは体力がないことを受け入れないといけないんだなあと、現実に、現在地に、悲鳴をあげることが増えたし、そもそも若さゆえの体力でごまかしている部分が大きかったなあと未熟な土台を省みることも増えた。


再生するためにごちゃごちゃしている。
ずっと体育が嫌いだった。運動神経が悪いと思っていた。が、足は遅いけれど縄跳びは得意だったことを思い出し、あれはただ合わない靴を履いたり利き手を矯正されたりしたことで『どうやって動かしたらよいか』困っていただけだったかもしれないと、それにここ数年こころの脱力によって左手を使うことを体感的に思い出したことによって、クレヨン、えんぴつ、はさみ、おはし、と自由度が高まるたびに何かがはじけとぶように芽生えそうになるので、単なる思い込みだったかもしれないと思いなおしている。

頭の使い方が変わったのか抑圧していたものが緩んだのか不思議と方向音痴だったことも克服している。駐車場でじぶんの車を探すなんてことがなくなったし、手元に地図がなくても脳内で地図を作っていたりするので我ながら驚いている。方位磁針がなくても方角を読めるようになりたいという願望すら芽生えている。


ああ、なにがなんだか。
体力が、動作が、体温が、追いついていない感じがする。「これは上野発の夜行列車……の音なんかじゃあない」とブツブツしながら、現在地を明確にする必要がありそう。なにごともシンプルってむずかしい、なんて構えてしまうのだけれども『転んだら起き上がる』という動作をへたくそに不器用に始めているようにも感じる。
嵐のように穏やかじゃないけれど、こころは惑いながらもわくわくしているので、なにごともゆるやかに続くといいなあ。動こう、動こう。



今週のお題「練習していること」