からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

眼鏡を外して裸眼で過ごす

眼鏡をかけている。けれども眼鏡に頼って過保護にするのも違う気がする。
十代後半くらいから視力が下がり続けて、視力検査のあの表の一番上のマークもぼんやりするようになって、動体視力もどこへいったのやら、キャッチボールはこどものころのように目と体が連動しない感覚があってモヤモヤ、している。

岐阜の養老天命反転地にて暗闇を歩くことがあった。
眼鏡を外して、何も見えないのだけれど、足を、からだを研ぎ澄ましてまわりを『みる』ことを普段から意識したいなあと、そんなことを暗闇に感じた。ハラハラ、ドキドキしながらも全身でワクワクしていた。

目で見るのではなくて、周囲のことに順応するからだをどうやって築けばいいのか、いまは具体的にわからないのだけれど、ひとまずは膝のちからをぬいて立つこと歩くことを習慣にしようと思う。


雰囲気をたのしむこころはどこへいったのやら。
相手の表情がわからなくなることや派手に転ぶことを頭で推測して怯えすぎていたかもしれないなあと反省。こんなことではあかんのですよと自分自身の許容範囲が狭くなって他人への許容度が下がっていることに困っていたんだとふと気がついて、気をゆるす仲にそんな態度であることがいちばんさみしいことなんじゃあないかなあとも思ったり、無意識にさみしさを覆い隠すんで自分自身へ腹を立てていることをやけに重たく感じたり、腹が据わっていないことに違和感がないのはおかしいだろうと整頓したり。

常々、違和感を育てないとなあと思っているけれど、現在地に順応するからだとこころの柔軟性も身につけたいなあ。だいたんに『だいたい』をしてこなかった癖が力んでねじれちゃってる。なおそう、なおそう。