からすのしっぽ

日々のおおまかなことを書いています。

場をととのえる

ホーホケキョを聞きながら草引きをする。
小さな家なので庭というほどの広いスペースはない。それでも毎月トイレの汲み取りやさんとガスやさんのおっちゃんが来てくれるので通路としての機能を確保せねばと、せねばと。どうにもずぼらなもので伸び放題になっている。

涼しい日や時間帯に外に出て太陽を浴びるときもちがいいもので。
何事も疲れるほどやらないぞ、と決めて何回かに分けて草を引く。といっても通路の邪魔になるものと風通しを悪くするものだけを引っこ抜いて、背の低いものは昆虫たちの住み家に残す。せっせとせっせと……腰を痛めた。近くに田んぼがあるので我が家の敷地内にもカエルちゃんをよく見かける。草引き中にも何匹か発見した。


このごろ日が暮れると室内の灯りを求めて窓ガラスにヤモリちゃんがくるので彼らのおなかや手のひらを観察している。おもちゃが来たぞとばかりねこちゃんも注意深く見つめるのでうっかり室内に侵入しないように気をつけなければならない。ヤモリちゃんに気づかず換気のために窓を開けたらひょいと室内に入り込むことがあった。と、もうそんな季節かあ。冬が確実にどこかへ行ったのを遅ればせながら感じている。


なんだかこう、のろのろしている。
世間や季節から三十歩ほど遅れているそういうのろさではなくて。じぶんのここちよいリズム感から遠のいているような、しかし無自覚なだけでこれが本来の動作のように感じていることも確かで。受け身すぎたこども時分の癖が息を切らして正当ではないと主張しているだけなのかもしれない。もやもやするけれども「わからない」という結果の心地よさときたら、なんていいものだろう。「わかりたい」と「わかってなくちゃ」はまた別物だ。

あたまの使い方がぐううんと変わっているような気がする。
四月から始めたラジオ英会話はマイペースに続いているし、お誘いのあったラテン音楽も練習が習慣づいている。わからないことだらけでもやもやすることが多いが「わかってなくちゃ」をやめることでインプットするための空間の容量が増えているような気がする。脳トレをしたあとのように脳みそがかゆい。(使っていなかった機能が起き上がっているらしい。いつもこのかゆさのあとには何かしら「あら、いつのまにかこんなことできてるう」というおどろきの発見がある。)
わからないもやもやを楽しみながら、からだを伴うほど「わかりたい(知りたい)」と好奇心が高まる頃合いがいちばんインプットしやすいのかもしれない。体感で感覚的に理解することが増えてきた。


そんなきょうこのごろなので、ただ太陽を浴びて草引きをしただけなのに、なんだか生活しているなあと。いのちが活きているなあと。そんなふうなことを感じた。